やわたんまち

鶴谷八幡宮
千葉からJRで2時間、房総半島の南端
風景が少し南国めいています
徒歩15分 神社に着きました。
この神社は
安房國総社として、国府の地(現在の南房総市府中)に創建され、
その後、鎌倉時代にこの地に遷座
平安時代の国府が衰微するにつれ、総社としての機能を失い、
鎌倉幕府の崇敬する八幡へと変化したようです。


祭神は
品陀和気命(応神天皇)、帯中比古命(中哀天皇)、息長帯比賣命(神功皇后)
とされています。
11時 神職の入場です。
 平安時代にその国の国府で周辺の神社六社を合祀したものを、
六社宮と言っていたようです。

その頃安房の国では、
安房・洲宮・下立松原・手力雄・山宮・山荻・莫越山・木幡の八神の
分霊を祭り六所宮と称していたようです。

これが現在の「やわたんまち」に繫がったといわれています。

拝殿向拝の天井の百態の竜の彫刻は、
房州の名工後藤利兵衛義光の作で館山市の文化財です。
坊やもしっかりお祈りいたします。
 
「やわたんまち」に参加する神輿は
ここの神社「鶴谷八幡宮」の神輿。

それに昨日から各神社から巡幸してきた十社の神輿が登場します。
この長屋のような建物はそれらの神輿が一泊した御仮屋です。
 
安房神社

神武天皇の御代、孫神天富命が沃壌
を求め阿波の忌部氏を率いてこの地
へ住み麻穀を蓄殖させた。

よって忌部氏の住むところを
安房郡と名づけ、
その守護神として、大玉命社を建て、
後に安房社と称した。

延喜式に名神大社(神社の格の表示)
に列されていて、御神輿の屋根には
菊のご紋がありま
す。
鶴谷八幡宮

平安中期に安房郡の総社 (数社の
神社を総合して勧請した神社の総称)

として国府村(現南房総市府中)に創建。
鎌倉時代にこの地に遷座。

武家時代に、特に領主里見氏に
厚く崇敬された。
 
 洲宮神社

神武天皇元年に天富命が勅命を奉じ
魚尾山に奉祀された。

当時魚尾山は海辺にあったので
洲神または洲宮と称された。
下立松原神社

創建は神武天皇元年。
源頼朝公、里見氏の崇敬厚く

徳川氏からも御朱印を受けていた。 
 
手力雄(てじからお)神社
神武元年、忌部族が鎮祭した神社と
伝承されている。

「天岩戸」神話で怪力を示した武神。
江戸時代までは、大井大明神の名で

崇敬され、里見氏が43万石余の
社領を寄進すると、徳川幕府も
これに倣った。
山宮神社 
白雉年間(650~654)、摂津の人
中臣幸彦が猛獣や作物の害を除き

生国攝津三島に祀る大山祇命をこの地に
勧請した、


 
山荻(やもうぎ)神社

景行天皇53年(123年)8月巡幸、
五穀豊穣を祈ったと記録にあるとか。

穀物の守り神、幼児の虫封じの神として
知られている。
莫越山(なこしやま)神社
延喜式神明帳に安房国六座の一つ。 
神社の創立は神武天皇元年、天富命が

忌部の諸氏を率いて安房の国へ来臨し
東方を開拓された折、安房神社のご祭神で

あり、忌部の祖神である天太玉命を奉齋した。
 
木幡(こはた)神社
景行天皇53年(123)10月の創建と言う。
 地方官として任命された大伴氏一族が

安房に着任した際、中央に館をたて、
支配の中心とした。

当時、着任地に氏神をまつる風習があり、
それが木幡神社の起こりだとされてる。

高皇産霊(たかみむすび)神社

創立年代不詳

 
子安神社
創立は養老3年(719)と伝えられる。
安産の神として崇められている。 
 僕も立派なやわたんまちの男
になるでしょう。
 
神社から西へ少し歩くと館山湾(鏡ケ浦)です。
由緒ある神社の数々が生まれるよりももっともっと昔から
寄せては帰す波が止まることはありません。


古さなら内の神輿と譲らない

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