中沢麦つき踊り

平成19年10月17日(水) 
千葉県富里市の中沢稲荷神社で無形民俗文化財の
「中沢麦つき踊り」が行われました。

富里市は、千葉県の北総台地のほぼ中央に位置しています。
都心から約50キロメートル〜60キロメートル圏、
成田空港からは西に約4キロメートルに位置しています。
農業の町でスイカは有名です。

なお、富里という地名は、明治22年に近隣13ケ村が合併したときに
13(とみ)の里→とみさと→富里・・・となったんだそうです。


千葉から千葉北ICで東関東道・富里で降り県道を3km(30分 31km)
 県道を少し入っていく
 
見かけた人に稲荷神社はと聞くと、この奥だよ。
車は・・・というとここへ置け・・・・廃業スタンドらしい。
スタンドと商店に挟まれて奥に神社がありました。
鳥居の見えるところまで来ると人の声がします 朝7時
当番の氏子さんが見えて、もう準備が始まっています。
鬱蒼と繁った鎮守の森は薄暗く雰囲気があります。
氏子さんが三々五々お供えを持って見えます。
御幣とお強を境内の全ての神に捧げます。
重箱にはお強と甘酒(茶碗に入っている) これをひとつひとつお供えします。
境内の神々(十以上あります)に一つ一つ・・・
このような台のないものには上へ供えます。
この慰霊碑にはこの村から赤紙で駆り出され、再び古里へ戻ることの
出来なかった32名の方々の名前・没年・享年が
刻まれています。

昭和18〜20年がほとんどで、それも二十一・二
一人ひとりの名前をなぞると若者たちの無念を感じます。
この碑にもお供えがされます。
この人は重巡洋艦「高雄」の乗員、無事に帰国されたそうです。
友達が沢山死んだと言っていました。

乗艦「高雄」は終戦まで善戦し、終戦後英国海軍により
マラッカ海峡で海没されたという。

英海軍が最後までなかなか沈まなかったと言ったとか、
わが子の最後を悼むように語って呉れました。
八時四十分 祭礼が始まりました。このお社は平成9年に建替えられたもの。
九時から湯立ての始まりです。
火はいや増しに燃え盛り、湯気も勢い良くなって来ました。
四方に刺してあった四本の幣でかき混ぜます。
束ねた熊笹を熱湯に浸して・・・・
・・・・参拝の人々に振り掛けます。
その笹を家へ持って帰り一家の安全と豊作のお守りとするのだそうです。
僕も頂いて帰りました。
神事が終る頃、近くの幼稚園児が来ました。
少子化の中でこんなに沢山の子供さんがいらっしゃるなんて・・・・と言うと、
ここは成田空港に近いので結構若い人が住んでいると言う事でした。

子供の頃からこのような文化に触れることは大切なことですね。

「中沢麦つき保存会」(20人)による踊りが始まりました。
この踊りの故事来歴はさだかではないそうですが・・・・

麦はなかなか白くならないので1500回位搗かなければならいことから
苦しさを紛らすための労働歌ではないかとの事。
中央の方が会長さんです。
  ♪つけた つけたよこの麦は つけたはずだよ千五百  
   ♪踊り踊るなら品よくおどれ しなのよいのを嫁にとる 
     ♪ぬしが唄えば踊りもしまる 櫓太鼓の音もはずむ 
       ♪踊り消すなよ夜あかしまでも 夜あけがらすの鳴くまでも 
         ♪嫁にゃゆきたし朝寝はしたし 姑こじゅうとないうちへ
           ♪親の意見となすびの花は 千にひとつの無駄がない
             ♪立沢、新橋の蛙でさえも 
中沢よいとこはねてくる
               ♪さあさ皆さんしまおじゃないか うちへ帰りが遅くなる
今度は幼稚園のみんなも一緒で〜す!!!!!
一生懸命です。
小腰を曲げた所作がもう女性ですね。
お土産を貰いました。何だろうな?
この子達に社会的DNAが伝わったことでしょう。
これで今年の湯立てと麦つき踊りは終りました。
全てが終わり10時、皆さん三々五々帰宅です。お疲れ様でした。

飽食の世に麦つきを語り継ぐ

これでわたしの見た中沢麦つき踊りはお仕舞いです。
継続は大切な事だとつくづく思いました。
紙に書いた故事来歴などはどうでもいいのです。
皆が体で覚えたことを体で伝え、永永と続いている。
それにより社会のDNAが継承されるのでしょう。

富里に関しては「スイカロードレース」を掲載しています。

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